Araki Syuseikan Museum | 〒468-0014 名古屋市天白区中平5-616 |
荒木實 著 362頁 B5判 発行 中日出版本社 ISBN4-88519-092-4 C3021 P10000E 当館長 荒木實、長年の研究の集大成。名古屋市の須恵器・山茶碗の窯跡である東山古窯址群の発掘を行い、その調査結果をまとめたもの。 荒木集成館推薦の一冊。
東山古窯趾群 平成6年4月13日印刷 平成6年4月25日発行 著者 荒木實 発行者 生田良雄 発行所 中日出版本社 名古屋市東区東桜2-13-21 電話(052)931-5230代表 発売所 愛知県郷土資料刊行会 |
荒木實氏がこの度、古希の記念として40数年に亘るライフワークともいうべき須恵器・山茶碗研究の集大成である『東山古窯趾群』の大著を刊行されることになった。荒木氏と言えば、独力で荒木集成館を作り、名古屋考古学会の創設者の一人として「古代人」の刊行を続け、愛知県の考古学研究の発展に努めてこられた著名な研究者であることは知らぬ人はあるまい。同様の研究テーマを持ち、40年に亘って交友を続けてきた小生にとって、この度の御仕事は誠に嬉しく、正に快挙と言うにふさわしいものがある。古墳出土の須恵器を通じて後期古墳の研究に携わっていた小生に、東山古窯祉群の存在を初めて教えて下さったのが荒木氏であり、その後の小生の陶磁器研究の原点にも深く関わっているだけに、この度の荒木氏の御仕事は誠に感慨深いものがある。
いうまでもなく、東山古窯祉群は東海地方で最も早くから知られていた須恵器窯跡群であり、東日本最古の須恵器窯跡群である。また、昭和29年以降に知られるようになった猿投窯の出発点となった須恵器・山茶碗窯跡群でもある。いま、その内容を拝見すると、荒木氏の考古学研究の出発点となった昭和27年発見の東山3号窯から今日までに関わってこられた東山古窯祉群のすべての古窯跡資料が網羅されており、それぞれに関する見解が盛られていて、誠に貴重な研究書であり、古窯辞典でもある。特にその中でも重要なのは東山218号窯・10号窯・11号窯などの初期須恵器であり、八事裏山古窯跡群であろう。前者は東海地方の須恵器の発生に関わる大きな問題を含んだ古窯跡群であり、後者は12世紀における当地域の山茶碗と瓦生産の持つ歴史的な意義を含んだ古窯跡群である。今後の古代・中世古窯跡研究に果たす役割はきわめて大きいものがある。
荒木氏の考古学研究の大きい特色は一片の破片もおろそかにしない真蟄な姿勢であり、また、その研究地域が徹底して東山古窯祉群の範囲に限定されていることである。一地域に密着したこのような研究姿勢が40年という年月のうちに、膨大かつ緻密な大資料集成として結実したことは研究者としてのあるべき姿勢に大きな指針を与えるものであろう。
昭和28年にお会いしてからすでに40年を超えた。荒木氏は当時のままのように若々しい。そして集成館の運営・古代人の刊行など精力的な御仕事を続けておられる御姿を拝見するにつれ、氏から学ぶべきことの大きいことを痛感する。
今後益々、荒木氏の研究の御発展を願って、お祝いの辞とする。
東山古窯址群発見 | 1 | ||
千種区の考古学研究 | 4 | ||
東山(H)-3号古窯 | 11 | ||
東山5号(星ヶ丘)古窯 | 22 | ||
千種区の古代遺跡分布 | 31 | ||
東山古窯83号 | 34 | ||
東山(H)27号窯 | 39 | ||
東山(H)27号のII | 48 | ||
東山(H)27号のIII | 55 | ||
東山古窯86号窯跡発掘調査 | 原田久義 | 69 | |
城山中学分校学区内の地質図作製と古窯の分布 | 73 | ||
ライブラリーあつたNo68 | 82 | ||
東山古窯2号 | 84 | ||
東山古窯址2号(妙見町)の発掘報告書 | 86 | ||
東山古窯2号のE窯 | 102 | ||
東山(H)2号窯の底部 | 106 | ||
集成館パンフレットNo1 | 112 | ||
名古屋市千種区下方町出土の坩堝 | 116 | ||
千種区日和町出土花文の〓(土偏に宛) | 高橋芳子・上田厚子 | 120 | |
東山11号古窯(I・II) | 123 | ||
東山10号古窯址の遺物 | 136 | ||
東山(H)18号古窯 | 140 | ||
東山古窯址群における最近出土の須恵器 | 145 | ||
東山古窯址群内よりの最近の出土(その二) | 157 | ||
東山古窯址群内よりの最近の出土(その三) | 164 | ||
千種区南明町の遺跡 | 水野裕之・塩沢寛樹 | 171 | |
東山218号窯の古式須恵器について | 荒木實・増子康真・大井智晴 | 174 | |
東山219号窯址の資料紹介 | 森茂雄・岡村孝二 | 183 | |
東山224号(藤巻町)古窯 | 荒木實・大井智晴 | 187 | |
城山八幡宮(H-228号)窯 | 森茂雄 | 190 | |
名城大学第2グランド横の古窯祉(H-230号) | 岡村孝二 | 192 | |
東山古窯址群内出土の須恵質円筒埴輪 | 三渡俊一郎 | 195 | |
東山古窯址群及び天白における瓦の成業 | 214 | ||
麒麟 | 216 | ||
東山古窯址群内における山茶碗窯 | 218 | ||
東山古窯址群内における山茶碗窯(そのII) | 226 | ||
東山H-231号窯の採集資料 | 南野孝順 | 232 | |
東山古窯址群内における須恵器窯 | 235 | ||
東山古窯址群内における須恵器窯(その二) | 241 | ||
東山古窯址群内における須恵器・山茶碗窯(その三) | 248 | ||
八事裏山1号窯発掘調査報告 | 名古屋考古学会裏山1号窯調査団 | 267 | |
八事裏山1号窯第二次発掘調査報告 | 名古屋考古学会裏山1号窯調査団 | 290 | |
八事裏山1号窯第三次発掘調査報告 | 名古屋考古学会裏山1号窯調査団 | 311 | |
八事裏山1号窯第四・五次発掘調査報告 | 名古屋考古学会裏山1号窯調査団 | 327 | |
八事裏山1号窯第六次発掘調査報告 | 名古屋考古学会裏山1号窯調査団 | 336 | |
東山古窯址群と〓(瓦に泉)について | 340 | ||
集成館パンフレットNo100 | 346 | ||
東山古窯址群内の関係文献 | 350 | ||
東山古窯址群の分布図 | 351 | ||
東山古窯址群・須恵器編年図 | 360 |
昭和23年の春、当時6・3制に教育制度が変って容易に教員になれた時代でした。私も新制中学の理科の先生になれました。クラブ活動も始めはスポーツをやっていましたが、やがて授業後は理科の先生らしく「自然観察」の方へと眼が向くようになり、名古屋市の東部の城山中学の学区内には有名な東山公園や平和公園があり、全く自然には恵まれた地域でした。動物・植物・鉱物とよく採集して歩きまわっていました。その中で社会に役立ったのが一つありました。それは、東山公園の池の深度調査でした。丁度その頃、昭和27年の12月のある日、生徒が一片の土器片らしきものを持ってきて、「山で拾ったのですが、これは何んですか」と質問してきました。私は見たこともないが、人工的なものであるからと、社会科の先生方にも聞いてまわったが、はっきりしなかった。山野を跋渉し、自然観察を得意としていた私は、その日の授業後に、生徒達とその山に向いました。そこには山を開墾して畑になっているが農耕のじゃまになる石ころと共に、その土器片が山積みにしてありました。その後土器片の沢山に埋っているところも見つかり、これは学術的に価値のあるものではないかと考え、何んとか、土器片の正体を知りたいと考え、つてをさがして遂に、その翌年、名古屋大学考古学研究室の澄田正一先生にご指導を受けることが出来ました。「そのものは考古学上で縄文、弥生時代に続く古墳時代以後に生産され、使用された須恵器と称せられる土器片」であったのです。そして今一つの言葉は「土器片があっち、こっちに出土するならば、それらの分布調査を続けて下さい」と、そうして私は動物植物鉱物の調査をすえ置き、土器片の散布地をさがし求めて、学区内の東山に自由ヶ丘にと毎日クラブ活動で歩き続けました。道路は開け宅地が造成されて行く、その折に土器のザックリつまっているところが発見され、そしてセメントの中に、家の下に隠れて行き、歳月と共に「東山古窯址群の分布図」となって来たのです。 |
「東山古窯址群」内の調査経過 荒木實
年月日 | 場所 | 遺跡名 | 調査者 | |
S12 | 千・東山公園地区内 | 山茶碗古窯址発見 | 丹羽主税 | |
S27・12 | 千・日和町で中学生 | 須恵器発見 | 城山中学校 | |
S28 | 千・城山中学・学区内 | 古窯址分布調査を始める | 城山中学校 | |
S28・3 | 千・日和町4 | H(東山)-3号窯発掘調査 | 城山中学校 | |
S28・6 | 天・八事萱野 | 萱野古窯址調査 | 丹羽主税 | |
S30 | 昭・滝川町 | A(荒木)-26号(光真寺)採集 | 南山大学 | |
S31・4 | 千・星ヶ丘 | H-5号発掘調査 | 城山中学校 | |
S31・7 | 昭・南山町 | 南山聖堂古窯址発掘調査 | 南山大学 | |
S33・5〜8 | 千・田代町鹿子殿 | H-27,A-86発掘調査 | 城中分校 | |
S35・8 | 千・猫ヶ洞通 | H-10号附近発掘 | 城中分校 | |
S35・9 | 昭・富士見丘 | H-55,61,八事廃堂址発掘調査 | 名古屋大学 | |
S40 | 全地域内 | 遺跡分布調査 | 県教委 | |
S41・8〜12 | 昭・妙見町 | H-2号C・E窯発掘調査 | 川名中学校 | |
S46・3 | 千・御影町 | H-G-40〜44号発掘調査 | 市教委 | |
S46 | 全地域内 | 遺跡分布調査 | 県教委 | |
S47・2 | 千・東山植物園内 | H-101号発掘調査 | 市教委 | |
S51・8 | 昭・滝川町 | 光真寺古窯(地下鉄工事) | 市教委 | |
S52・8 | 千・稲舟通 | A-218(H-48)採集 | 名考会 | |
S54・9 | 天・八事裏山 | H-15号発掘調査(栄光幼稚園) | 市教委 | |
S55〜 | 全地域内 | 遺跡分布調査 | 県教委 | |
S56〜61 | 天・八事裏山 | 裏山1号A〜F窯発掘調査 | 名考会 | |
S57 | 昭・伊勝町1-12 | H-111号調査 | 名古屋大学 | |
S61 | 千・名大構内 | H-61号採集 | 名古屋大学 | |
H2・5〜6 | 千・揚羽町 | H-G(行基焼)-6号発掘調査 | 市教委 | |
H3・9〜10 | 昭・山手通1-23 | H-1号灰原発掘調査 | 市教委 |
この三枚の分布図は 1.須恵器の時代 2.山茶碗の時代 3.その他の時代と分けた。昭和27年から、この平成5年まで約40年間に渡って筆者は一貫して、この東山古窯址群にこだわり続けた。何としても「東山古窯址群」と云う研究を一冊の本にまとめたいと願っていたから、その間に色々な人が一時ずつ調査に入っては去って行った。筆者もライフワークとして呑びりかまえていたが、この春で古稀が終ろうとしている、生命の長さを思い、遂に踏切ることにした。 研究も始めの内は城山中学生と共に学区内すなわち末盛を中心とした「東山古窯址群」内である。須恵器と山茶碗が一緒に出土する窯跡がいくつもあった。段々と判明してくると二つの時代に渡って使用された窯跡であることも、更には前の窯を補修してやっていたものもあろうし、山茶碗の時代に同じように横に並べて作業をしたので灰原では二つの時代が交雑して出土するように思われた。こうしたことも、もっと正確に時間を掛て調査をしたら明確な答を出すことが出来たであろうが、人間は常に焦りがつきまとって慌てゝ終了しているのが現状である。いづれにせよ、古代人(名古屋考古学会々報)に毎年のように、新しい調査の時は、忘れない内にそれを記載し、資料のない時は古い調査を記載さして頂き、勿論自己だけでなく名考会の会員や、その他名大の学生等も、それぞれに発見し発表してくれたのが積り積って来た。 今迄の分布図は常に三枚を一緒にしているから複雑になりすぎて分かりにくい、思い切って分けてみました。 |
古式須恵器窯を永い間捜し求めていた我々によってH218が続いて名大によって、H111が発見され、東山古窯址群の創業時代が5世紀中葉と決定もされ、最初の陶部(すえつくりべ)は朝鮮の伽耶国の人であろうことも推定されてきた。 古窯址群内の発展段階を考えるに、古墳時代の尾張の中心地は、やはり熱田・高蔵の辺であった。そこへ朝鮮の陶部が招へいされてきて、さて粘土を求めて東山の方へ歩き出して、たどり着いたのがH111、H218あたりと考えられる。円筒埴輪を出土する処は、昭和区の伊勝の辺から千種区に入ってゆき山崎川をさかのぼってゆくことになるが、西の方は南明町や池下の辺も平地から山地に取着く処にも発見されている。そうして奥地の11号10号窯と深入りしてゆく、漸くその頃になると集落も形成されて、やがて古墳が出来てくる、入舟山にも古墳があったと思われ、その痕跡を確認することが出来た。やがて城山古墳群も造られる集落へと発展して行ったと思う。筆者の推定では陶馬の出土した気象台の山のあたりと、唐山の平瓶の出土した台地上は、奈良時代に集落があったところと思う、そして古窯の広がりも徐々に大きくなって行き、峠を越えて名東区や天白区へ、更に植田川を越えて分散して行った。 |
東山古窯址群内における山茶碗の時代は猿投窯の瓷器に類する上質の灰紬陶器の碗、皿の生産は、HG201とHG224に見られたのみであった。唯201では緑紬片が検出され、大型のものもあり共に花紋は見られた。 他の山茶碗窯は平安型の大型の薄手の上手品は千種区よりに多く、少しずつ広がってゆくにつれて技術は下ってゆく感じであるが、中心的には碗、小碗共に高台があり、時には大鉢も見られる。時折、鎌倉型の小型で高台なしの碗、小皿が見られるのは天白よりになってくる。 八事廃堂址は名大の楢崎彰一教授によって発掘調査された処で二彩や平安瓷器の出土した台地上の遺跡である。この遺跡を中心に山茶碗の生産と平行して瓦の生産も行われた。この東山古窯址群および植田川を挟んだ東側にも瓦生産が多く見られ、平安後期には、東山工高にあるHG15の瓦、HG101の瓦、HG34、HG61そして裏山1号窯と多量の瓦産業が行われ、それに付随する仏具も多様に生産されている。そうして鎌倉型になってくると、めっきり少くなって、長久手、瀬戸方面へと行ってしまったのではあるまいか。 安田塚は平地上にぽっ念とあった塚で、経塚とも一里塚とも不明の内に姿を消し、更に近くは高速道路工事で、その位置さえも完全に消滅してゆくうきめである。 |
荒木實(あらき・みのる) 大正11年4月21日、名古屋の城下町碁盤割に生れる。名古屋薬学専門学校卒。戦後新制中学の教員となり、昭和48年に退職。昭和27年に考古学を始め、同45年考古学のミニ博物館「荒木集成館」を設立。同53年財団法人となる。日本考古学協会会員。名古屋地学会会員。名古屋考古学会会長。財団法人荒木集成館館長。
現住所 名古屋市天白区中平5-616(〒468) 電話(052)802-2531